2024年中頃に出された、特許実務に関連するEPO審判部の3件の決定紹介
2024年6月から7月にかけて、対欧州特許庁実務に関連する欧州特許庁(EPO)審判部の決定が3件相次いで出されました。以下、それぞれの決定の概要を紹介します。
I.T1941/21(2024年6月5日付決定)
本件審判は、欧州特許第3016654号(以下「654特許」)に対する異議申立てについての、特許を取消す旨の異議部の決定に対して、特許権者により請求されたものです。
決定T1941/21において審判部は、障害の治療に使用するための「物質A」に関するクレーム(審判請求における主要求のクレーム1)は、同じ障害の治療に使用するための「物質B+物質A」に関する先行技術の開示に基づいて新規性を欠くとの判断を示しました。
1.事件の背景
(1)本件対象特許の概要
654特許の異議申立ての対象となったクレーム1は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の治療に使用するためのタウロウソデオキシコール酸(TUDCA)(以下「物質A」とします)に関する第2医薬用途クレーム[i]の形式であって、次のように記載されています。
「1.哺乳動物の神経変性疾患の治療に使用するための物質Aまたはその薬学的に許容される(pharmaceutically acceptable)塩であって、前記神経変性疾患がALSであることを特徴とする。」
このクレームは、ALSを治療するための単剤療法としての物質Aの使用を包含しています。しかしながら654特許の明細書に記載のデータは、物質A+リルゾール+ビタミンEの併用療法についてALS患者における有効性を示しただけであり、物質A単剤での療法に関するデータが開示されていませんでした。
2.特許異議申立ての提起および異議部の判断
654特許について、特許異議申立てが提起され、異議申立人は、クレームされた発明の明細書による開示の十分性の欠如および先行技術文献に基づく進歩性欠如のために、特許は取り消されるべきであると主張しました。
(1)特許クレーム1に記載の発明の、明細書での開示の十分性について
上述のように、654特許の明細書には、物質A単剤での療法に関するデータが開示されていないにもかかわらず、第一審の異議部は、異議申立人が、ALSの治療において物質Aが治療活性を持たないことについて、検証可能な証拠を提供していなかったことを理由として、クレーム1の発明が十分に開示されていると判断しました。
(2)特許クレームに記載の発明の特許性について
特許クレームに記載の発明について異議部は、複数の先行技術文献のいずれか、あるいは複数の先行文献の組合せに基づいて、新規性・進歩性がないとの理由で、特許を取消す旨の決定を下しました。
3.審判の請求および審判部の判断
上記異議部の決定に対して特許権者は、審判を請求し、654特許のクレーム1と同じクレームを主要求クレームとし、異議申立ての審理で提出した補助要求クレームのうちのいくつかを補助要求クレームとして提出しました。審判の審理では、開示の十分性はさらに考慮されませんでした。これは、審判請求人の相手方である異議申立人が、審判請求に対する答弁において、開示の十分性についての主張を維持しなかったためであると考えられます。
審判の審理において、ALSに罹患した哺乳動物の治療に使用するための低用量のジアゾキシド(以下「物質B」とします)を含む組成物に関する特許出願である先行文献D8(EP2422787A1)に基づいて、本件主要求クレーム1(654特許のクレーム1と同じ)の発明の新規性欠如が新たに指摘されました。
D8の開示は、物質Bのみの使用に関するデータのみを提供しており、物質A(実際には「TUDCA」)との組合せは、約40の選択肢のリストから任意に選択されたものでした。それにもかかわらず審判部は、併用療法における物質Aの有用性のみを示した先行技術の付随データに影響されて、物質A単剤による療法の効果を認識した可能性があるとして、主要求のクレーム1は新規性を欠いていると判断しました。
審判部は決定において、異議部の決定を取消すとともに、異議申立てに対して特許権者が提出した補助要求クレームの一部について審判請求人の主張を認めて、異議部の取消決定を覆し、特許を維持する命令を下しました。
以下、D8により主要求クレーム1の新規性が阻害されるかどうかについて、審判部においてどのように審理されたかについて説明します。
D8のクレーム1は、「筋萎縮性側索硬化症(ALS)を伴う哺乳動物の治療において、……薬剤として使用するための物質Bまたはその薬学的に許容される塩」と記載されています。
D8の決め手となる(decisive)部分は、クレーム1に従属するクレーム8、およびクレーム8に従属するクレーム9であり、クレーム8には、「ALSの治療に有用な物質B(実際のクレームでは「ジアゾキシド」)と1つ以上の治療薬の併用投与」を開示していました。またクレーム9は、クレーム8の「1つ以上の治療薬」として、ALSの治療に有用とされる約40の治療薬をリストアップしており、その中に物質Aを含んでいました。
審判部は、リストからの単一の選択には新規性を付与することはできないという確立された判例法に基づき、ALSに罹患した哺乳動物の治療に使用するための物質Bと物質Aとを含む組成物は、D8から直接かつ明確に導き出すことができると判断しました。
重要なことは、審判部が、D8がALSの治療における物質Aの有効性に関して、試験管内(in vitro)または生体内(in vivo)の実験結果を開示しなかったとしても、D8は物質Bと物質Aとに基づく併用治療を可能にすることを開示したと判断したことです。審判部は、物質Bの有効性は実験データによって裏付けられており、物質A単剤でのALS治療における有効性については「反証されていない」ことを強調しました。
確立された判例法に従い、審判部は、既知の組成物(物質Bと物質Aとを含む組成物中の物質Aで、既知かつ同一の一般目的(すなわちALSに罹患した哺乳動物の治療に使用される)の特定の成分の新たな特性の発見には新規性を付与することはできず、新規性は、この新しい特性が新しい用途に適用された場合にのみ認識されると判断しました。
したがって、主要求のクレーム1は、先行技術文献D8に基づいて新規性を欠いていると認定されました。
4.実務上の留意点
654特許のクレーム1は、欧州特許条約(EPC)第54条(5)の文言に基づく第2医薬用途クレームとして記載されています。それに対して先行技術文献D8では、クレームは組成物の文脈でのみ物質Aに言及しており、物質AがALSの治療における活性薬剤であることを示す開示は見当たりません。それに対して、本件決定において新規性なしとされたクレーム1は、物質Aまたはその薬学的に許容される塩がALSの治療における活性物質であるという技術的特徴を含んでいます。したがいまして、例えば、本件特許が物質A(TUDCA)単剤によるALS治療法の有効性を明確に立証しておれば、審判部は主要求クレームの特許性を認めた可能性があります。よって、第2医薬用途クレームの特許性を主張する実務者は、特許の明細書の記載によって公知の物質等の第2医薬用途に適用した場合の有効性について、特許の明細書の記載により実証することの重要性に留意する必要があります。
II.T1809/20(2024年6月6日付決定)
T1809/20の決定においてEPO審判部は、主要求および唯一の補助要求のクレーム1が、開示された「好ましさ」の異なるレベルでの複数の選択範囲を含んでおり、異なるレベルの選択範囲の組合せを裏付けるような数値の開示が、出願当初の明細書に存在しないため、新規事項を追加するものとして、特許を取消しました。
1.事件の背景
欧州特許EP2513134B1(以下「134特許」)は、「精製抗体を生産する方法」をクレームし、これには、いくつかの範囲を含む洗浄溶液で洗浄するステップが含まれていました。異議申立の審理において、特許権者であるNovartis AGは、洗浄液のpHの範囲をさらに定義する主要求クレームを提出しました。
その決定において、EPO異議部は、新規事項の追加(added matter)、開示の十分性(sufficiency)、発明の進歩性(inventive step)に関する異議申立人の主張を却下し、主要求のクレームの特許性を認めました。異議部の決定に対して審判が請求され、その中には新規事項の追加に関する主張が含まれており、その主張が特許の取消しにつながりました。
2.出願当初の134特許の明細書の開示
134特許の出願当初の明細書の洗浄液に関する開示に焦点を当てると、主要求のクレーム1は、以下の特徴(1)~(3)を含む選択範囲の組合せを要求していました。
特徴(1):洗浄液中のアルギニンまたはアルギニン誘導体の濃度。
特徴(2):洗浄液中の非緩衝性塩の濃度。
特徴(3):洗浄液のpHが8.0より大きい。
特徴(1)の濃度については、134特許の出願当初の明細書には、「0.05Mから2.0Mの間……より好ましくは0.05Mから0.85Mの間……最も好ましくは0.1Mから0.5Mの間」と記載され、主要求のクレーム1は、これら3つの開示された選択レベルのうちの中間の好ましい範囲(「より好ましく」)を記載していました。
特徴(2)の濃度については、134特許の出願当初の明細書には、「典型的には0.1Mから2.0Mの間……、または0.5Mから1.5Mの間……、または1 Mから2 Mの間」と記載され、したがって、1つの広範囲と2つのサブ範囲を開示しており、主請求のクレーム1はそのうちの広範囲を記載しています。
特徴(3)については、134特許の出願当初の明細書には、「1つ以上の洗浄液のpHが8.0より大きいこと、好ましくは少なくとも8.1、より好ましくは少なくとも8.5、さらに好ましくは少なくとも8.9であること」を開示していました。主要求のクレーム1は、pH値に対する複数のレベルの好ましい範囲の最も広範な好ましい範囲(「8.0より大きい」)を記載しました。
3.審判部の決定
審判部は、特徴(1)が中間レベルの好ましさの選択範囲に関連しており、その一方で、特徴(2)および(3)は開示された最も広範な好ましい範囲を選択していると認定しました。その結果、審判部は、「主要求のクレーム1の特徴(1)~(3)の記載が、記載された選択範囲の組合わせを裏付ける実施形態の開示が出願当初の明細書に存在せず、明細書に開示されていない異なる好ましさのレベルでの複数の選択範囲に基づいているため、主要求クレームは許可可能ではないと結論付けました。
補助要求のクレームに記載された洗浄液は、特徴(1)の最も好ましい範囲、特徴(2)のサブ範囲の1つ、およびより好ましいと記載された中程度の好ましさのレベルに対応する下限を有する特徴(3)のpH範囲を特定しました。
特許権者は、組合せの基礎は、出願当初の明細書に開示された実施例によって提供されると主張しました。審判部は、特徴(1)と(3)については、実施例がこれらのクレームされた範囲の限界を表す値を開示していたことを認めましたが、特徴(2)については、実施例における関連する数値範囲が、補助要求クレームに記載の数値範囲よりも広範な範囲と、より狭く限定した数値範囲であったため、補助要求クレームに記載の数値範囲を特徴(2)の数値範囲としてクレームで限定することは、新規事項を提起するとして、特許権者の主張を受け入れませんでした。
4.実務上の留意点
本件決定は、発明の異なる特徴のそれぞれについて、複数の好ましさのレベルの数値範囲が明細書に開示されている場合、クレームにおいてそれぞれの特徴を数値範囲で限定する補正を行なうに際しては、限定された数値範囲の組合せが、明細書の実施例の記載による裏付けがないとして、新規事項を提起すると判断されるおそれがあることに留意する必要が
あることを示しています。言い換えれば、好適な代替案として複数の特徴のそれぞれについて数値限定の補正を行なう場合を想定して、新たに限定された数値範囲の組合せが相乗的な発明の効果をもたらすことを明細書の開示に基づいて主張することができるように、明細書の作成段階においてそのような組合せを特定し規定しておくことを十分検討すべきであると言えます。
III.T 1741/22(2024年7月26日付決定)
本件は、特許出願を拒絶した審査部門の決定に対する審判請求事件です。
1.事件の背景
本願(EP 16 153 964.8)の発明には、体液中の血糖値レベルを分析するため、すでに得られた測定値から新しいデータを生成して表示するという新しい側面が含まれていました。
審査部門は、クレームされた発明が、クレームの明細書によるサポートの必要性を規定するEPC第84条及び発明の進歩性を規定する第56条に適合していないと判断して拒絶の決定を下し、それに対して出願人は、審判を請求しました。
2.審判部の判断
測定データの分析から新しいデータを取得することは独創的かどうかという問題について審判部は、決定T 1741/22において、独創的ではないと判断しました。
本件審判の決定によれば、本件担当の技術審判部は、測定値を評価または解釈することによって最大値または最小値を取得することは、本質的に非技術的な、経験的事実認識に基づく(cognitive)、または数学的な行為に相当すると判断し、技術的効果をもたらすものではないと認定しました。
この審判部の判断は、EPOの「COMVIKアプローチ」に基づいてなされました。この「COMVIKアプローチ」は、「進歩性は、新たな機能が技術的効果(したがって発明の技術的特性)に貢献する場合にのみ、新しい機能によってもたらされる」との考え方に基づくものです。
本件審判の決定は、特許を無効にしようとする立場からは、進歩性欠如の攻撃を提起するのに役立つ可能性があります。ただし、「血糖値変動の全体的な測定と血糖状態の予測」を提供することが技術的効果を提供すると判断した、以前の別の技術審判部の決定T 2681/16とは異なる判断であり、EPO内に意見の相違があることを示しています。
3.別の審判の決定T 2681/16との相違
本件審判T 1741/22の決定よりも前の審判の決定T 2681/16において、別の技術審判部は、すでに測定され取得された血糖値データを処理するアルゴリズムに関連する新しい特徴が、血糖値変動の全体的な測定と血糖値状態の予測の技術的効果を提供するとの判断を示しました。それに対して本件審判の決定においては、すでに収集されたデータを処理してさらなるデータを生成することは、物理的現実(すなわち、患者の体液)との相互作用を持たず、拡大審判部の審決G 1/19[ii]に基づいて、測定が技術的性質を持つためにはそのような相互作用が必要であると解釈しています。G 1/19については、たとえば下記「情報元7」をご参照下さい。
そのような解釈に基づき、本件の決定では、血糖測定が実施された時点で物理的現実との相互作用が終了すること、および血糖値変動の全体的な測定を提供し、血糖値の状態を予測することは、数学的ステップまたは知的活動に過ぎないため、物理的現実との相互作用は存在しないと判断しました。
T 1741/22とT 2861/16とで扱った技術審判部の専門性の違いも、意見の違いに影響した可能性があります。T 1741/22はデジタル計算のケースを扱うBoard 3.5.0.5によって発行されましたが、T 2861/16 は診断方法のケースを扱うBoard 3.2.02によって発行されました。
4.実務上の留意点
(1)本件担当の技術審判部の判断は、以前の別の技術審判部の決定(T 2681/16)と比べて、治療目的の医療測定の分野の特許権者にとって不利な判断を示しており、EPOで進歩性を評価する際に、すでに得られた測定値を処理するアルゴリズムに関連する特徴を考慮するべきではないという主張が、進歩性欠如の攻撃を構築する上で有効である可能性を示唆しています。
(2)本件審判の決定から、人体または動物の身体からの測定データの処理に関する発明の特許出願を起草する場合、発明の進歩性をサポートするため、例えば処理されたデータの技術的使用による別のデバイスの制御に関する説明を含めることなどが有効になり得ることが読み取れます。
(3)決定T 1741/22およびT 2681/16の技術審判部間の判断の相違は、それ自体が注目に値するものですが、将来審判部がどちらの決定に従うかは予測困難です。この点についてはEPOの拡大審判部の判断に委ねられる可能性があり、EPOの動向が注目されます。
[情報元]
1.D Young & Co. “T1941/21: a successful novelty sufficiency squeeze for a second medical use claim?” December 10, 2024
2.T 1941/21 (TAUROURSODEOXYCHOLIC ACID (TUDCA) FOR USE IN THE TREATMENT OF NEURODEGENERATIVE DISORDERS/Bruschettini S.r.l.) 05-06-2024(決定原文)
https://www.epo.org/en/boards-of-appeal/decisions/t211941eu1
3.D Young & Co. “T1809/20: preferable patent language” December 10, 2024
https://www.dyoung.com/en/knowledgebank/articles/t180920-preferable-patent-language
4.T 1809/20 06-06-2024(決定原文)
https://www.epo.org/en/boards-of-appeal/decisions/t201809eu1
5.HOFFMANN EITLE Quarterly Newsletter 12/24 “Is Obtaining New Data From Measured Data Inventive? The Board in T 1741/22 Says Likely No”
https://www.hoffmanneitle.com/news/quarterly/he-quarterly-2024-12.pdf#page=5
6.T 1741/22 (New medical data/ROCHE) 26-07-2024(決定原文)
https://www.epo.org/en/boards-of-appeal/decisions/t221741eu1
7.JETRO デュッセルドルフ事務所「欧州特許庁(EPO)審判部、コンピュータ利用のシミュレーションの特許性に関する拡大審判部審決を公表」(2021年3月10日)
https://www.jetro.go.jp/ext_images/_Ipnews/europe/2021/20210310.pdf
[担当]深見特許事務所 野田 久登
[i] 公知の物質や組成物について、新規である第2の医薬用途が発見された場合に、物質としてのクレームの記載が認められています(EPC54条(5))。
[ii] 拡大審判部は審決G1/19において、コンピュータ利用発明に関する確立された判例(COMVIKアプローチ)がコンピュータ利用のシミュレーションの発明にも適用される旨の審決を下しました(「情報元7」参照)。COMVIKアプローチによれば、発明の技術的性質に貢献するクレームの特徴のみが進歩性の評価において考慮されます。