知財論趣

模倣と改良の歴史経験

筆者:弁理士 石井 正

模倣問題が深刻
 中国の模倣品問題が深刻で、国際社会でも非難されることが多いようだ。新聞にもあるいは雑誌等にも音楽ソフトが無断で大量にコピーされ、安価に販売されていること、あるいはゲームソフトなどはネット上をまったく著作権無視で流通していること等が報道されている。自動車の部品製造を中国の業者に下請けに出したところ金型情報が業者間に流出し、後始末にひどく苦労したという愚痴を企業関係者に聞いたことがある。模倣品問題は許されるべきことではない。被害を受ける実際の企業にとっては再発防止に躍起となることもよく理解できる。
 ただ歴史的にみると、この模倣問題は、国の一定の発展段階で先行国を元気よく追いかけていく時に、しばしばみられる普遍的なパターンでもある。国はそれぞれ発展段階を踏んでいく場合、当然のことであるが、各国の国の発展段階が異なるから、遅れている国は進んでいる国から技術を求める。先進国がその技術を出さない場合には、盗んでまでもして、そうした技術を得ようとしてきた歴史的経験がある。

英国は改良が得手
  産業革命の先頭を走った英国も、ダニエル・デ・フォーに言わせれば「発明よりは改良が得手だというのが、常に、イギリス人の国民性について語られる一種の諺だ」(大塚久雄「近代欧州経済史序説」(1981年)118頁、岩波書店)ということになる。ここでいう改良とは、当時の先進国、フランスやオランダ、イタリアなどの国で生まれた技術を導入しあるいは模倣し、それを少し改良するという意味であった。
 17世紀までの英国は、大陸諸国と比べて明らかに技術は遅れていた。16世紀末までそれが顕著で、高級織物類、石鹸、金属製品、紙類、ガラス等はすべて大陸諸国からの輸入に頼っていた。1624年に英国には専売特許条例が作られ、これが近代特許制度の大きなステップとなったとされているが、この制度は大陸の技術職人を英国に移住することを奨励する目的であって、技術的に遅れた英国にとって新技術をもつ職人が英国に移住してきた場合には、彼らに特許権を与えるという制度であった。大陸から導入してきた技術を英国では、ただひたすら改良していくのが得意であるとダニエル・デ・フォーはやや皮肉をこめて強調するわけである。

アメリカはヨーロッパの発明を巧みに実用化
 フランス人貴族のトクヴィルは1831年にアメリカを旅行し、その結果を「アメリカの民主政治」に取りまとめたが、そのなかで彼は次のように言う。「アメリカではヨーロッパの発明は巧みに実用化される。そしてヨーロッパの発明はそこでは完成されたあと、驚嘆されるほどに国の必要に応用される。人々は勤勉ではあるが、科学と産業とを研究しない。優秀な労働者たちはみつかるが、発明者たちはほとんどいない」(「アメリカの民主政治」(1835年)(井伊玄太郎訳、講談社文庫(下)266ページ)
 18世紀末から19世紀初めの頃のアメリカは、母国である英国と比べると技術的にはひどく遅れた国であった。英国にとってアメリカは重要な輸出先の一つで、下手に技術的に自立されて欲しくない。だから米国がほしがった繊維機械は輸出禁止したし、その機械の技術者、職人もアメリカへの移住を禁止したのであった。アメリカ産業革命のヒーローの一人、サミュエル・スレーターは農民を装って、英国に渡り、繊維機械工場に潜り込み、その機械類を詳細に記憶しておき、米国に帰って、職人達に英国で見てきた最新繊維機械を詳しく説明して、模造させた。その模造繊維機械を設備したアークライト型綿紡績工場がロードアイランド州のポウケットに作られたのが1793年、アメリカに特許法ができてすぐの頃であった。

メイド・イン・ジャーマニー問題
 19紀半ば以降、ドイツがイギリス製品を模倣して生産し、それをイギリスに輸出するという問題は深刻であった。ただドイツで生産された物をそのまま英国へ輸出すると、販売も必ずしも順調にいかない。そこでドイツ企業はその模倣ドイツ製品にメイド・イン・イングランドと記したのである。そうすると価格の安いメイド・イン・イングランドと表示されたドイツ製品は、英国において飛ぶように売れていったのであった。英国企業は怒った。卑劣なドイツ企業は排除しなければならないとあらゆる機会に主張していった。イギリス政府はドイツに対してドイツで生産された商品は必ずメイド・イン・ジャーマニーと明記せよと求めたのであった。こうしたドイツ製品はイギリス製品に勝てる品質ではなかったが、問題が深刻化し白熱した議論が展開していくなか、その品質はついに逆転していくのであった。それがまたイギリス国民を憤慨させるのであった。

模倣を非難された日本
 明治日本は西欧諸国からすべての文物を輸入した。文献により、あるいは最新機械の輸入により、そしてお雇い外国人と留学生によりあらゆる科学技術の知識と情報が輸入された。好奇心と新知識に対するどん欲なまでの関心は西欧諸国を驚かせたが、それがただちに創造性に関わってくるのとは考えられなかった。しょせんは模倣パターンと一つとして受け止められたにすぎなかった。
 戦後、日本政府が米国、欧州各国から非難されたのは模倣問題であり、このため輸出品のブランド・デザインの模倣取り締まりと検査に苦労した。安いが品質に問題ありという批判に対して、輸出検査で玩具や繊維製品の品質までをも検査したことが懐かしく思い出される。ともかく戦争によってすべてを失った日本にとって、輸出によって外貨を稼ぎ、その貴重な外貨により鉄鉱石、石油、綿花、食糧等々、どうしても必要な物資や原料を輸入していくより他になかった。戦後最初の輸出製品は、進駐軍の捨て去った缶詰の空き缶を利用したブリキのおもちゃであり、1ドルブラウスであった。その後、模造だ、模倣だと非難されたミシン、カメラ、時計等が続いていった。

特許制度の契機
 それが今、中国の模倣品問題であり、品質問題である。歴史は繰り返すというが、その典型例とは言えないか。国が発展していくとき、もしも発展に必要な技術が他国にあるのであればその技術をその国から求める。その技術が安価に手に入らない、あるいはその技術を提供しないというのであれば、模倣だろうが模造だろうが、あるいは違法と言われようと、どのように非難されても必要な技術は入手していく。そうした歴史的経験を重ねてきている。
 興味深いことは、こうした歴史的経験の過程に近代特許制度が深く関わっていることである。英国が専売特許条例を作った1624年は英国が大陸諸国と比べて技術の遅れが著しいときであったし、アメリカが特許制度を作った1790年はヨーロッパ諸国と比べてほとんど工業のない、農業国家であったし、ドイツの前身、プロシアが1815年に特許制度を作ったときも、プロシアはひどく遅れた国であった。
 それぞれの国は技術的な遅れを取り戻すべく、特許制度を作り上げた。外国の技術を身につけた技術者、職人を自国に移住させるべく、そうした技術者、職人には特許権という特別な特権を与えるという制度を作ったし、たとえ遅れた国ではあっても、そうであればこそ発明をした者には特別のインセンティブを与える特許権と与えるという制度を作った。