知財論趣

技術の文書化:明細書の誕生

筆者:弁理士 石井 正

技術が文書化される時代
 科学者は筆の人であったのに対し、技術に関わる者すなわち職人は手の人であった。科学者は知り得た知識を文書にして、それを関係者に配布し、発表していく。それが科学であった。対して職人たちはものを作る人であって、彼らが知る技術を文書にするなどと言うことは考えない。普通はその属するギルドのなかに技術は閉じ込めておいて、他のギルドに新たな技術を教えるということもしない。
 しかしそれがルネッサンスの時代から変わっていった。技術もまた科学と同じように文書にその内容が記載され、その文書が印刷され、広く配布されていくようになったのだ。技術の世界に科学者が入ってきたということもあるし、そもそも技術が大学という知識センターにおいて教育されるようになっていったことが大きい。

デ・レ・メタリカあるいは百科全書
 デ・レ・メタリカは1556年、アグリコラによってまとめられた鉱山、冶金に関する全12巻からなる技術全書である。202の詳細な図面もついた技術書であって、16世紀当時の欧州における鉱山や冶金の技術実態が詳細に紹介され、まことに画期的なものであった。百科全書はフランスのディドロやダランベールが中心となってまとめられ、1751年から1772年に発行されたこれまた画期的な全書であった。
 このデ・レ・メタリカも百科全書も当時の技術を詳細に記述し、これらの本を読むだけで、技術内容が理解することができた。それまで技術は職人たちの手にあって、そうした技術は職人から職人へと伝えられていくものであって、その技術が文書になり、書籍になると言うことはなかっただけにまことに画期的なものであった。ルネッサンスの時代以降、技術もその内容が少しずつ文書にされるようになっていった。

特許制度はヴェネツィアに生まれる
 近代特許制度はヴェネツィアに生まれた。アドリア海を海の高速道路として活用した貿易国家ヴェネツィアが加工貿易国家へと変わる契機は1453年コンスタンチノープルがオスマン・トルコによって陥落したことであった。それまでの貿易上の優位を確保できなくなったヴェネツィアはフィレンツェなどから職人を招聘することによって技術を導入し、加工貿易国家へと移行していく政策をとった。それが1474年のヴェネツィア特許制度であった。新技術をもつ職人をヴェネツィアに呼ぶこと、そのためには新技術を生み出した者へ特権を与えると言うものであった。
 ヴェネツィア共和国における特許付与の審査は、発明の実物あるいは見本に基づいた。審査委員会は発明の実物か見本を確認し、実際に動かしてみて評価したのである。発明を文書にすると言うことはこの時代にはまだほとんど行なわれていなかった。その発明はヴェネツィアにおいて新規であればよく、他のフィレンツェ等で既に知られていてもよかった。要はヴェネツィアにとって有益な新技術であればよかったのだ。

エリザベスの英国では
 16世紀の英国は、金属、石鹸、ガラス、高級織物などは大陸からの輸入に頼っていた。技術的に遅れていたのであった。この大陸諸国との技術的格差を解消するためにオランダ、フランス、イタリアからの職人の招聘がエリザベスの政策の柱であり、そのための方策の一つが特許であった。1624年の専売条例は英国内における独占禁止の法令なのであるが、ただ発明に関する特許だけはその独占禁止の例外とする法制度であった。英国に新技術をもたらす発明に対して与えられる特許だけは14年間、独占を許すと言うものであった。

明細書の誕生
 専売条例に基づき英国で特許を得る場合、出願手続においては特に発明の明細書を提出するなどと言うことはしなかった。もちろん審査もなく、ただ登録するだけであった。ところがこうした場合、後に特許権侵害訴訟が発生した時に困る。そもそも特許権の内容が不明であるから、裁判で被告はそこを突いてくる。原告である特許権者は彼の都合の良いようにその発明内容をさまざまに主張すると言う状況であった。そこで裁判になった時に備えて特許権者はあらかじめ彼の発明の内容を記述した文書を裁判所に預けておくという慣行が根付いていった。18世紀の頃であった。裁判所もそうした文書に記述された内容に基づいて特許権侵害訴訟の判断をする要になっていった。それだけではない。そうした発明を記述した文書によって新発明は社会全体に周知させ、新発明が社会で広く利用されるようになるべきであると言う考えが定着していったのである。
 18世紀末にこうした考えが定着するために大きな影響を与えた判決のなかから二つ、例を挙げてみよう。
 1780年、当時、最も影響力のあった判事マンスフィールド卿はライアデット対ジョンソン事件において次のように判示する。
 発明を世に広く伝えるにあたって、特許権者の個人的影響力や監督をもってするという方式は、完全に、そして最終的に、斥けられたのであって、今や新理論、すなわち、その役割は特許の発明明細書が担うという考え方に代わった。
 また1785年、キング対アークライト事件でブラー判事は次のようにいう。
 特許権者は彼に与えられた特許の内容について、発明明細書を読めば他者もそれを実行できるようなやり方で、自分の秘密を開示し、発明を詳細に記述しなければならない。何故ならば発明明細書の目的と意義は特許期間が終了した後は、その技術がどのようなものであるかを社会に周知せしめることにあるから。

米国特許法は明細書提出を求める
 18世紀英国において定着した特許明細書であるが、特許法として明細書の提出を義務づけるということはしなかった。あくまでも特許権者の意思で明細書を裁判所に預けるという仕組みであった。それに対して1790年に成立した米国特許法は明確に特許権者は発明明細書の出願時提出を求めた。なにしろ1790年米国特許法第1条では、発明あるいは発見が明確に、真正に、しかも十分に説明された場合には、これら申請者には14年間を超えない期間、発明あるいは発見について独占的で排他的権利が与えられる、としていた。この規定に従い、出願時に発明者は発明の内容を詳述した特許明細書を提出し、その明細書の内容に基づいて発明の審査をして、特許を付与するという制度となった。もちろん米国は英国の裁判の状況をみた上での特許明細書の考えを導入したのであった。

明細書が国際標準となる
 各国において特許明細書が義務づけられるにはかなりの期間を要した。特許を付与すると言う国家主権の制度と、発明明細書により新技術を国内に広めるということがなかなかリンクして理解されることが難しかったのである。それが大きく変わるのが19世紀末、ウイーンにおける特許国際会議であった。この会議においては世界各国の弁護士、学者、政府関係者が一堂に会して、特許制度の是非にはじまり、望ましい特許制度の基本的ルールについて、議論したのであった。
 この会議は世界の特許制度の事実上の標準を決定するまことに画期的なものであった。会議の第2決議の(e)ではつぎのようにいう。特許の付与は、完全な発明の技術上の適用を可能な程度に公示すべきである。そして(g)では、能率的に組織された特許庁を通じて、誰でも各特許の明細書を入手することを容易にしなければならない、と決議したのである。国際標準としての特許明細書の誕生である。