特許庁の誕生
特許と著作権
特許制度があれば、誰しも、当然に特許庁が存在すると考えやすい。現在では、世界のほとんどの国に特許制度があり、それらの国には規模の大小は別として、ともかく何らかの特許庁的組織があるから、そうした発想をするのも当然なのかもしれない。
同じ知的財産でも、著作権と異なり、特許の場合には出願をし、審査が行なわれ、登録をして、また公報も発行するのが一般的であるから、どうしてもそこには行政事務作業や審査を行なうための専門の行政機関が必要となってくる。比べて著作権では、国際条約のベルヌ条約でも一切の手続なしで著作権という権利が発生することを各国に求めているとおり、権利発生の過程に特別の行政手続が必要というわけではない。そうであれば著作権保護のために専門の行政機関が必要になるということはない。
ヴェネツィアあるいは英国では
1474年に特許法が制定されたヴェネツィアでは、特許を得ようとする発明者はヴェネツィア共和国の行政長官にその申請をした。申請を受けた行政長官は、ヴェネツィア政府のなかにある様々な委員会にその発明の評価を求めた。その委員会としては、商業委員会、水利委員会等があった。ヴェネツィア人の政治的に巧みなことは、発明の審査をする委員会に既存のギルドのメンバーを参加させていたことであった。新規な発明に特許を与えるということとなれば、ギルドにとっては不利益なこととなる可能性があり、反対が出てくる可能性もある。発明の評価のための委員会にはギルドのメンバーを入れておけば、そうしたトラブルも最小にできるとみたのであった。いずれにしてもヴェネツィアにおいては、年間に数件程度の特許申請しかなかったから、こうした行政機関内部の委員会で発明評価を行うことで済んだわけである。
英国ではどうか。特許法ができた1624年から1750年頃までは、各年の特許申請数もわずかなもので、せいぜいが年間10件程度のものであった。この程度の規模の特許申請であれば、特別の行政機関を設けることなく、済ませてしまう。特許の有効性の判断もすべては裁判所で行なう。ところが英国は1750年頃からいわゆる産業革命に入っていった。当然のことであるが、発明は急増し特許申請数はうなぎ上りに増加した。ところが産業革命に発明と特許が重要な役割を果たすことが明らかになったにもかかわらず、英国は特許のための専門行政機関は設けなかった。
チャールズ・ディッケンズの小説「貧しき特許発明家の物語」は、主人公の発明家が12を超す官庁の扉を叩き、苦労を重ねて特許を得るプロセス、その結果、貧乏な発明家へと転落していく姿を描いている。19世紀半ばのことであった。この時代、英国議会では特許制度の問題点が常に議論され、この後、ようやく特許の専門官庁が設立されていった。
フランスそしてドイツ
フランスでは、革命前は科学アカデミーが発明の審査と評価を行った。この科学アカデミーの評価を受けて、商業局が発明者に対してさまざまな支援をしていった。革命後は発明は無審査で特許されるようになったために、ただ出願を受け付けて、それを特許登録し、公報を発行する専門官庁が対応するだけとなっていった。
ドイツでは、1815年にプロイセン特許法が布告されたが、この審査はプロイセン商工業技術委員会が担当した。この委員会の責任者がプロイセン産業の父と称されたボイトであった。プロイセン工業活動助成協会と協力して、保護に値するような発明はただ特許するだけではなしに、様々な助成もおこなっていった。しかし特許のための専門官庁という機関ではなかった。ドイツはこの後、19世紀末にドイツ帝国特許法が施行され、このときからいわゆる出願受付から審査、審判、公報発行業務を専門に行なう特許庁が設立されていった。
特許庁を作った米国
英国、フランス、ドイツと比べて、米国の特許法運用はしっかりとしたものであった。特許庁という専門官庁を設立し、そこで出願の受付から発明の審査、公報を発行するための一切の業務、そして特許の先行技術を調査するための図書館サービスなどがすべて行なわれていった。なにしろ1790年米国特許法に基づき、特許出願を受け付けてその審査をするとなったときの、審査体制がすごい。国務長官、国防長官、司法長官が共同して審査を行なった。国務長官は第三代大統領のトーマス・ジェファーソンであった。
米国特許法は、こうした伝統をもつ1790年法の後、1793年に改正され、さらに1836年に大改正があった。この1836年法によって、米国は特許出願の受付、審査、公報発行のシステムがさらに充実し確立していった。
日本が特許制度を導入したのは明治18年(1885年)であった。その特許制度はすべての特許出願は審査をした後に、一定の条件をクリアしたものだけを特許するというものであった。そうであれば特許制度を運用するための特別の官庁、特許庁と言うものが必要になるに違いない。それはどこの国の組織を参考とするべきか。参考としたのは米国特許庁であった。
明治日本の特許庁
明治18年11月24日、高橋是清は米国へ出発した。米国、英国、フランス、ドイツの特許と商標事情を調べること、さらに各国特許庁の実務を調査することが目的の海外出張であった。前年の明治17年に商標法、そしてこの年に専売特許条例の作成・施行の中心役として活躍した是清に対して、伊藤博文から特許、商標について海外事情を詳しく調査するようにとの指示があり、これを受けての出張であった。
ワシントンの米国特許庁には翌年1月2日に訪問。以来、3月まで連日、特許庁の実務を実際に見学し、質問し、資料を得た。経理部、出願部、審査部、製図部、審判部、図書館、見本模型室等を順次、見学していくなか、法令や参考資料は簡単に入手できたが、大きな課題が残った。
毎週発行している米国特許の公報そして明細書であった。5年分を遡って購入するとなれば、1万5000ドルにもなるという。是清は無償で提供することを米側に求めたが、さすがに無理であると言う。しかし米国特許庁と交渉すると、日本はまだ公報は発行していないが、将来、発行した時にそれを米国特許庁へ提供するとし、米国と日本が公報を交換するという取り決めをすれば、両国は公報を交換するのであるから無償で過去5年分を提供するという。この米国から提供を受けた米国特許公報がその後の日本特許庁の審査資料の基本となった。
米国特許庁の調査の後、欧州に渡り、英国、フランス、ドイツの特許庁を調査したが、英国は特許庁組織がほとんど無いに等しく、フランスも審査をしていないために是清には参考にならなかった。ドイツとは米国特許庁と同じように公報の交換の取り決めをすることができた。
1年間にわたる調査の結果は、日本は米国特許庁の特許実務を参考とするべきであるというものであった。
特許庁の建物
帰国すると、耳寄りの話が待っていた。農商務省内で山林局と農務局所管の地所を売った金が8万円ほどあり、その使途を決めるので意見を聞きたいとのことであった。計画では8万円のうち2万円くらいを工務局と特許局で使用するとのこと。しかし是清は、8万円全額を特許局の新局舎建設に使用するべきと猛烈に運動していった。彼の努力は実り、反対の多いなか、最終的に賛同を得たのであった。愉快なエピソードが残っている。
井上馨農商務大臣が、その建築設計図を見て、こんな大きなものを建てて一体、何年これをやる見込みかと尋ねたそうだ。
これに対して、是清は、「まず、今後20年です。20年経って、これでは狭いというようにならなければ日本発明界の進歩は覚束ないと思います。フランスで谷さんに話したことですが、東京見物に来た者が、浅草の観音さまの次には、特許局を見に行こう、という位にしたいと思います」と答えたら、井上馨は大笑いして、同意されたとのことであった。いかにも是清らしい話である。
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