知財論趣

人間国宝の経済学

筆者:弁理士 石井 正

よい品を選ぶ
 先日、お世話になった方へのお祝いの品を探した。お祝いの品選びというのはいつも悩むもので、今は昔と違い、日常使用するものは既にほとんど所有していると考えた方がよい。豊かな時代であって、ものがなくて困るなどということはない。そうした豊かな時代に、差し上げて喜ばれるお祝いの品選びは、本質的に困難を伴うといってもよいかもしれない。そもそもお祝いに品物を贈るということ自体が、まだ物が豊富にはない時代の習俗なのだろう。そうした時代においては日常に使用するものですら、贈られてみればすべて喜びを伴うものであった。砂糖を一袋、頂いても家族全員で喜ぶ、という時代が少し前にはあったのだ。それも今では懐かしい。

桑の文箱
 さてその品選びである。悩みに悩み、結局、選んだのは文箱であった。机の上に置き、日常に使用できる文箱である。何の変哲もない文箱ではあるが、その材料と製作がまことに好ましい。桑の木の一種なのだろうが、きわめて品格のある木材を素材とした文箱。それをここまで丁寧に作るか、と言うほどの作りでまとめた文箱である。何度見ても全体に品格があり、なんとも言えない風格すら感じられる。文箱の小さな引き出しを手元に引くと、快い手応えを感じる。聞けば製作の職人さんは人間国宝クラスなのだと言う。よいものは本当によい、と言うことを実感させる文箱である。よい職人のよい仕事に感激している時に、たまたま新聞に久留米絣の重要無形文化財の指定問題が記事になっていた。それがいろいろ考えさせられる内容であった。

久留米絣と重要無形文化財
 久留米絣は1957年に重要無形文化財に総合指定された。紺地に白又は青の縞模様の織物で、元々は手織であったが、その後、動力織機が導入されて工場で大量生産されるようになった。重要無形文化財の保持者の場合、あくまでも伝統に従い、手織りによることとなる。さらに具体的には手括りで2名、藍染で2名、投げ杼で2名が保持者として指定された。ここまではよいのであるが、2年後に指定を受けた者が自殺するという問題が発生したのである。

重要無形文化財の悩み
 無形文化財の指定を受けた、すなわち人間国宝となると全国から注文が殺到してきた。それはよいとしてもすべてが手作業であるから夫婦で月に3反か4反程度しかできない。これだけの生産量であると、いくら人間国宝により織られた久留米絣といっても収入には限界があり、1959年当時で1万円の月収であった。ところが動力織機を用いた機械織なら月に100反はできるという。当然のことなのだが、この生産性に併せて久留米絣の一般的価格は決まる。なまじ人間国宝となったために機械を使うことができず、すべて手作業で行わなければならない。重要文化財の保持者による手織であるといっても、価格は驚くほど高くすることはできず、生産性は低いというジレンマに悩まされる。手作業が重要文化財の保持者にとって、いわば義務とも言えるものであった。どれほど能率がよくても機械織りはできない。文化財の認定を受けた時の条件は守らなければならないということは、すべてがコストを高め、能率を下げてしまう。それでもその織物の価格をそれに見合って高くすることができない。高くすると売れないのである。

需要と供給の原則
 考えてみれば、経済学にしたがうとすべては需要と供給で価格が決定される。機械織りにすれば供給は増え、提供価格も下がり、それに応じて需要も増えていく。両者の条件が見合う価格で折りあっていく。それに対して仮に僅かではあるが手織りの風合いを楽しみたいという需要がある場合、その需要を満たすように供給がされる。供給側が手織りで製品を作る以上、価格はかなりの高額になるが、それを需要者が受け入れるとするならば、需要と供給がバランスして価格が決定される。ところがこの重要無形文化財の場合、そうしたことは一切、無視して文化財という観点から手織りであることを基本的要件として求める。その結果、経済的に成り立つかは無視してしまう。無形文化財としての技能職人は、その基本的要件を満たそうとすれば、経済的にやっていけない状況に陥るのである。
 その後、重要無形文化財保存特別助成金が支給されるようになったと聞く。机の上の文箱を眺めつつ、無形文化財となるような高い技能をもつ職人が高く評価され、経済的にも満たされるようにならなければならないと、つくづく思った。