知財論趣

ニコラ・テスラ:電気の天才

筆者:弁理士 石井 正

電気分野には天才が頻出
 電気は19世紀に生まれ、20世紀に大発展した技術領域です。現代の新技術と言ってよいでしょう。それだけに、天才もまた多く活躍しました。ファラデーにはじまり、エジソンがそうですし、マルコーニも、テレビジョンの発明者であるツヴォルキンも、またトランジスタの発明者であるショックレーも皆、天才というにふさわしい能力と創造の才を有していたのです。そうしたなかで我らがニコラ・テスラもまた天才の名を辱めない、超ど級の天才といっても過言ではありません。

クロアチアのテスラ
 テスラは1856年、現在のクロアチアに生まれ、オーストリアのグラーツにある工科大学で電気の勉強をしました。この時に彼は交流の技術的意味をはっきりと理解したようで、その才能は周囲の誰もが認め、卒業後、フランス・パリにあったエジソンの子会社に関わり、直ちにその能力が認められ、米国に渡ることとなったのです。エジソンの子会社に関わったのですが、エジソンとはうまくいきません。エジソンは頑固なまでの直流主義者で、それに対してテスラは交流主義者であったからです。エジソンは交流の技術的意味がよく理解できず、高圧の交流は人間に危険であるといって非難し、非難するだけでなく、交流は死刑に使用する電気であると言って誹謗までする始末でした。

交流モーターの発明
 テスラはエジソンの元を離れ、発明家として自立していきます。この過程で援助者が出てきました。特許弁護士のチャ-ルス・ペックとウエスタン・ユニオンの重役アルフレッド・ブラウンでした。彼らの援助のもと、テスラは交流で動くモーターを考えました。既に交流の意義は誰しも理解していたのですが、この交流で動くモーターがなかったのです。テスラは交流で動くだけではなしに、モーターには不可欠とされた整流子を必要としない方式をひたすら考えたのです。交流だから周囲の磁界を回転させることができる、回転子は別に整流子を必要としないはずだ、これがテスラの発想でしたが、これを実現しようとすると簡単ではありません。テスラは設計図を書かず、実験もほとんどしないのです。天才はただ頭で考えるだけで、最終的なモーターの姿・形を頭のなかで描くだけなのです。彼が頭の中で考え、設計した電気機械を実際に作ると、これがまことに将来有望な交流モーターであったのです。1887年10月に米国特許庁に特許出願し、翌年には特許されました。この発明の内容が知れ渡り、米国電気工学者協会に招待され、講演したところ絶賛を浴びることとなり、一躍、天才テスラの名は電気分野の関係者に知れ渡ったのです。

ウエスティングハウスの登場
 そこへ登場したのが、ジョージ・ウエスティングハウスでした。彼はエジソンに対抗して、交流での電力システム事業を行いつつあったのです。交流発電機も、交流のもとで電圧をあげるトランスも技術的に解決していました。照明は直流でも交流でも同じ技術で対応できます。ただモーターが最大の課題であったのです。交流で動くモーターがない。どうしても交流モーターを発明しなければならない。そこに登場したのが天才テスラによる交流モーターであったのです。テスラの交流モーター特許はどうしても欲しい。
 ウエスティングハウスの提案は、現金100万ドルでテスラの特許権を買い取るというものでした。テスラは特許弁護士のペックそして実業家のブラウンとも相談し、現金は6万ドルでよいこと、その代わりモーター1馬力あたり2.5ドルの特許使用料を求め、これで契約がされました。一時金は少なくてもよい代わりに、使用量に応じて特許料を得ると言う戦略的な発想です。天才は常にその発想が魅力的ですね。ただ天才テスラはもう一つ、ユニークなところがあったのです。彼は不思議なほどに気前がよいのです。普通、天才というと気難しく我儘で、けちという場合が多いのに、テスラは逆でした。ウエスティングハウスとの契約により入る収入のうち、9分の4を自分に、9分の5はペックとブラウンに与えたのでした。

契約の破棄
 ただ問題はその後に生じました。翌年1889年にウエスティングハウス社は投資会社チャーティアーズ・インプルーブメント社に買収され、ウエスティングハウス・エレクトリック・マニュファクチュアリング社となったのです。この時に投資会社が求めた条件がテスラとの特許実施許諾契約の破棄でした。会社の将来を考えるとき、この契約が大きな障害になるとの判断であったのでしょう。破棄するだけではなく、特許は使用するが使用料は支払わないという契約に変更するというまことに身勝手な要求でした。
 ところがテスラはその提案を受けてしまうのです。天才はまことに不思議な行動をするのです。提案を受けた理由は「ウエスティングハウスが、天才テスラを信用し評価してくれたこと」たったそれだけでした。失った金額はまことに巨額なもので、当時の貨幣価値で少なくとも1000万ドル以上であったと言われています。今の貨幣価値からすれば、1000億円以上となることでしょう。