知財論趣

農耕社会・定住・宗教

筆者:弁理士 石井 正

狩猟社会から農耕社会へ
 文明社会の構築という視点からすれば、狩猟採集から農耕社会へと発展することはきわめて重要なことと理解されます。狩猟採集社会では、せいぜい数十人程度の集団しか維持することができません。大きな集団となると、狩猟採集ですから食糧の確保が困難になるのです。それに対して農耕社会であれば,食糧はその集団の規模に応じて収穫することができますから、集団の規模の制限はなくなります。むしろ大規模な労働力の確保を必要とする水路の建設等を考えると、集団は大きい程よいとみられるわけで、自ずから集団は大規模化します。

肥沃な三日月地帯
 今のイラク、肥沃な三日月地帯で、今から1万年前くらいの頃、ちょうど小氷河期が終わり、気候が温暖化していた時に農耕が始まり、紀元前6000年くらい前には狩猟採集社会から農耕社会へほぼ移行したものとみられています。 これまでの定説では、狩猟採集社会では小集団が移動しながら生活していたとみられ、それが食糧の確保に次第に困難を感じ始めます。集団が移動した場合、移動した後に別の集団がそこに移動してきて狩猟採集しようとするので、集団間では常に微妙な競争的関係が生じます。すると移動するよりも、むしろ一定の場所に定着して、採集の際に見出していた例えば大きな粒の麦などを定住地に植えるということが試みられ、農耕が始まります。農耕がひとたび始まると、集団は飛躍的に大きなものとなります。大きな集団ほど農耕社会で有利になるからです。
 ところが大きな集団には固有の問題が生じてきます。集団内部に対立や利害が錯綜してきて、争いが生じ易くなるのです。そこで生まれたのが宗教であるとされます。集団内部の争いを抑え、共同体としての共通した神を信じることがなにより尊ばれるようになるのです。したがって宗教は農耕社会=大規模集団社会の誕生と密接に関連すると理解されてきました。もちろん肥沃な三日月地帯でもそうであったし、エジプト農耕社会と宗教も同じであったと考えられてきました。もちろん当時は一神教ではない原始宗教で、これが定説でした。ところが最近、この定説を覆すような遺跡が発見されて大きな話題になっているというから面白いですね。

ギョベックリ・テベ遺跡
 トルコ南部にあるギョベックリ・テベ遺跡がそれで、紀元前9600年の頃につくられたものと判定されています。トルコのこの地方における最大都市シャンルウルファから14キロの、シリアとの国境に近い山地にある遺跡で1994年、ドイツ考古学研究所のクラウス・シュミットにより見出されたものです。以前からこの遺跡は知られていたのですが、せいぜいビザンチン帝国時代の軍の拠点だろうと考えられていたのです。ところが調べていくと、極めて古く、狩猟採集から農耕社会に変わる前の頃、すなわち狩猟採集社会の最後の頃の遺跡であったのです。
 この遺跡は、小高い山の上にあって、農耕を行なうような平地からは遠く離れています。到底、人が農耕したり、あるいは住むような場所でない場所に20基以上の神殿が作られていて、神殿は16トン以上もあるような巨石によって作られています。その巨石にイノシシ、鶴、狐、サソリ、蛇等が彫られているのです。農耕社会=大集団での宗教の場合、通常、農耕地の周辺にそうした神殿を設けます。チグリス・ユーフラテスのいわゆる肥沃な三日月地帯である初期農耕地域はみなそうです。しかしトルコの遺跡の場合、それとは逆なのです。平地からは離れ、到底、農耕に適する地域ではないところに遺跡があり、その遺跡には巨石建造物があり、その建造物はかなりの規模の人々が動員されたとみられています。しかもガゼル等の骨が大量に出土しているのです。それはこの神殿を作り上げた人々は狩猟採集社会に生活していたことを示しています。

狩猟採集・宗教・農耕
 研究者達は,原始宗教発生の仕組みについて、思い切った見直しが必要ではないかと考え始めているのだそうです。農耕が始まる前、狩猟採集民が何らかの原因で定住し始めた頃、自分たちと動物達との大きな境界を意識し始めたこと、それが宗教の始まりであり、それがそのまま農耕社会で集団の安定のために利用されたのではないかと考え始めているのだそうです。農耕が始まり,大集団になったために,その集団の維持のために宗教が発生したのではなく、狩猟採集民が自分達と動物との境界を意識し、神の存在を感じたところから宗教が発生し、その後にそうした宗教が農耕社会の安定確保のために機能していったと考えているようなのです。遺跡一つの発見により、宗教の最初の成り立ちモデルが大きく変わるのですから、興味深いものですね。