知財論趣

ゲノム解読の価格低下

筆者:弁理士 石井 正

ヒト遺伝子の完全解読
 およそ14年前にもなるのですが、ヒトの遺伝子をすべて解読する国際プロジェクトがありました。2003年に終了したもので、13年間という期間と総額1000億円という巨額な費用をかけて達成したプロジェクトでした。ヒトのすべての遺伝子、すなわちゲノムを解読するということは夢のような話であったのですが、このプロジェクトによってその目標が見事達成されました。驚くべき成果で、世界はその成果を高く評価しました。はじめは米国を中心とした世界主要国が参加した国際研究事業として解読が進められたのですが、途中で民間研究機関が競争相手として登場してきたところから、解読情報の利用の在り方、知的財産としての保護の在り方等々、様々な議論があったことが思い出されます。

ゲノム解読の費用
 ヒトゲノム解読に成功した2003年頃の解読装置の価格はまことに高額で5000万ドル程度はしました。それがあのムーアの法則に従い、18ヶ月毎に価格は半額となり、さらに2007年頃からは第二世代の装置が開発され低価格は一挙に進行していったのです。実際、2007年には1000万ドルに低下し、その後さらに急速に低下していきました。2009年には10万ドル、現在では1万ドル前後でしょうか。前後等という曖昧な表現をするのは、付帯設備をどこまで含めるかによって価格が異なるからで、まずは100万円程度とみてよいでしょう。解読装置が低価格となると、当然のことなのですが、解読に係る費用が低下することとなります。ヒトゲノム解読から4年後の2007年に遺伝子構造の発見者であるワトソン博士の個人ゲノムを解読していますが、その費用は1億2000万円でした。しかも期間は2ヶ月を要したのです。これではゲノム解読の一般普及等ということは到底ありえないこととなりますね。ところがその後のゲノム解読装置の急速な低価格化によって、今では個人ゲノム解読が数十万円程度の費用で行えるまでになりました。米国のバイオ関連メーカーのライフテクノロジー社が画期的な解読装置「イオンプロトン」を開発したことにより、解読費用を1000ドル以下、すなわち10万円以下にすることができるという報道もありました。実際、インターネットでは日本国内においても、Gene Nx社がヒトゲノム解読を18万円で行うと公表しています。

ゲノム解読の光と陰
 バイオあるいはゲノム関連の技術進歩は著しいとは理解していましたが、これほどまでの低価格化の進行は想像以上のものがあります。個人のゲノム解読が10万円以下で可能となれば、その効果がやや疑われている人間ドックのような健康診断よりも、ゲノムのの解読価値の方がはるかに高いとみられるのです。すべてのヒトがそれぞれのゲノム配列情報を明らかにしておいて、病気や体質を判断する際の参考とすることができるし、最近、急速に進歩しているメガ・データ分析によって、膨大な量のゲノム情報を分析して、病気診断の自動化を可能とすることもできるでしょう。
 ただ考えなければならない課題が出てきています。それは出生前診断にこのゲノム解析が利用されるときの問題です。現在でもこの出生前診断は行われていますが、もしも妊娠した胎児のゲノム解析を行い、そこに問題を見出した場合、どうするのでしょうか。さらには遺伝子的に優良な人を優遇し、遺伝子的に問題ある人の活動を抑制するという心配すら考えなければなりません。
 ゲノム解析により病気診断、治療が可能になることは裏返せば、出生管理等にそれが利用される可能性を考えておかなければならないのです。科学技術の進歩に伴う本質的な課題が、そこには存在するようです。