知財論趣

ペリー提督の日本遠征記

筆者:弁理士 石井 正

黒船来航
 我が国が、それまでの江戸幕藩体制から開国し、明治新政府へと近代国家への道を歩み始めた契機は、米国のペリー提督率いる黒船来航でした。それまでさまざまな国から開国を求める交渉の機会があり、それらがことごとく失敗していたにもかかわらず、それがペリー提督により大きく覆ったのです。なぜ交渉はうまく行ったのでしょうか。

日本遠征記
 ペリーは交渉が成功し、神奈川条約(日米和親条約)締結後、帰国して大部な遠征記をとりまとめています。それをみると、彼が交渉に成功した理由が浮かび上がってくるのです。日本遠征記を読むと、まずその序論で日本についてかなり詳細な分析を行っていることに気づきます。ペリーは、日本を単に閉鎖的で遅れた国とみるのではなく、「日本人は極めて勤勉で器用な人民であって、業種によっては世界最高である」とし、「日本人は数学、力学及び三角法を知っている。非常に優れた自国の地図を作っているし時計を作り、そこに発明の才を示している」と分析しているのです。ペリーはそれまでの英国、ロシア等の交渉実態を見たうえで、日本を遅れた弱い相手とみずに、むしろ対等であるとみて、そのかわり断固たる態度を貫くことを決意していました。

浦賀沖来航
 四隻からなる艦隊は1853年7月8日、相模湾に接近し、夕方には浦賀沖に投錨しました。驚いた日本側は浦賀奉行等が長崎回航を求めて対応したのですが、ペリーは当初の方針通り、一切妥協せずあくまでも開港を求め、大統領親書を直接手渡したい旨を主張していったのです。もしもそれを拒否するならば江戸湾に向かうことを伝え、恫喝に近い交渉態度を見せたのでした。結局、幕府中枢の了承を得た浦賀奉行はペリー一行の浦賀上陸を認め、親書受領の公式行事を執り行うこととなりました。こうした成果を得たため、ペリーは今回はこれまでとして、翌年春に再び来航することとして一旦は帰国しました。
 大事なことは、この間にペリー達は日本側役人達の意思決定の方法、交渉の進め方を詳細に把握していたことです。交渉において明確な国家戦略を有しているとは思えないこと、むしろ時間稼ぎの対応が多く強い態度で出ると必ず妥協することなど。もちろんそれだけではなく、日本人は地球儀を出すとワシントンやニューヨークがどこにあるかをただちに指し示すこと、パナマ運河沿いのパナマ鉄道が完成したかを聞いてきたことに驚き、遠征記にも記録しているのです。

神奈川条約
 翌年2月に再び日本に来航したペリー達は、3月から横浜で林大学頭をトップとする幕府の正式な交渉団と条約締結に向けての外交交渉を進めていきました。ペリーの通訳をしたウイリアムスは「ペリーの要求に日本側がためらっていると、提督は強大な武力と厳しい条件を持ち出し、ずけずけと日本側を脅かした」と言います。ペリー自身も「自分が日本人に対してどこまでやれるか、試してみたい野心にかられていた」と書き残しているのです。交渉はペリーの主張が通り、下田港、函館港を米国に開港することを旨とする神奈川条約(日米和親条約)が締結されるに至ったのです。

交渉成功の要因
 ペリー提督が交渉に成功した要因は、事前に周到な情報収集と分析をし、日本というアジアの東に位置する国の文化レベルも政治体制もおよその歴史も理解していたこと、交渉の目的を明確にし一貫してそれを変えなかったこと、また日本側の弱点をよく認識していて、いざとなれば恫喝に近い交渉態度で臨んだこと等々でありましょう。
 ペリー提督が日本そして日本人をよく理解していたことの証左としては、遠征記に次のように記していることからも明らかです。その読みと予測がどれほど的確であったかは言うまでもありません。
 「日本人は実際的な機械技術に優れている。日本の手工業者は世界のどこの手工業者にも劣らない。人民の発明力で自由に開発させたら、すぐに最優秀な工業国になるだろう。日本政府の鎖国政策がなくなれば、最も恵まれた国の水準に達するだろう。その時、日本は強力な競争者として将来の機械工業の競争に参加するだろう。」