知財論趣

江戸歌舞伎の経済学

筆者:弁理士 石井 正

江戸歌舞伎
 出雲阿国(いずものおくに)に始まったとされる歌舞伎は、江戸時代に大いに隆盛しました。江戸の人々にとって最大の楽しみであり、また贅沢な楽しみでもありました。単に舞台を楽しむだけではなしに、食事をし、酒を飲み、歓談する場でもありました。「かべすの客」という言葉があるのですが、これは「菓子」、「弁当」、「寿司」の頭文字からなるもので、歌舞伎を楽しみに来たにもかかわらず、これだけしか食事をしない客のことを蔑んだ言葉でもあります。せっかく歌舞伎を楽しむのであれば、芝居茶屋で贅沢な食事をするというのが、その頃の常識でもあったようです。もちろんかなりの散財となりますが、江戸の人々にとってそれを上回る楽しみであったのでしょう。ところで、この歌舞伎はどのような収支計算となっていたのでしょうか。それを考えてみたいと思います。このためにまずは町人と武士の所得から見ていくこととします。

江戸時代の金貨と銀貨
 江戸自体の町人や武士の所得を考えたり、収支を見ていく場合、まず貨幣制度を理解しておく必要があります。江戸時代は金、銀、銅の三貨制度となっていました。金貨は小判が一両で、それに加えて一分(一両の四分の一)が基本です。銀貨の場合には、なかなかややこしくて、銀の重さに比例する秤量貨幣が基本でこれに少額貨幣が加わります。重量単位は匁、分、厘、毛などで、これに四文銭と一文銭がありました。金と銀との交換レートは時代によって変化するのですが、一両はおよそ銀60匁で、これは6000文に相当します。この金貨の一両は現在の価格から見るとどの程度の価値かといえば、およそ10万円から12万円程度でしょうか。江戸時代後期の蕎麦の値段はおよそ16文でしたから、300円程度と計算することができます。これは現在の蕎麦屋の料金と大きな違いはなさそうですね。

町人と武士の所得
 それでは町人と武士の所得はどの程度であったのでしょうか。職人の代表である大工の場合、普通であれば1日銀5匁というところでしょうか。1両は銀60匁ですから、1両を今の貨幣でみて10万円から12万円程度とすれば,1日の報酬がおよそ8000円から1万円程度ということとなり、年間所得は200万円から300万円ということとなります。商家の手代の年間給金はせいぜい3両から4両だから、30万から50万円程度となります。それでは武士はよい報酬を得ていたかと言えば、そうではありません。身分の最も低い武士の場合、年三両一人扶持と決まっていました。1両を10万円とすれば、年収わずかに30万円ということとなりますから、その家計が厳しいことは容易に想像できますね。身分の低い武士は年収が50万円にも届かず、また町人の多くは1日1万円以下、せいぜい3000円から5000円程度の収入で生活していたというわけです。

高額所得者であった歌舞伎役者
 さてそれでは歌舞伎の世界ではどうかということとなります。千両役者という言葉があります。大変立派な人気のある役者のことを意味する褒め言葉なのですが、実際に江戸時代の役者が年収で千両を超していたところからついた表現でもあります。初めて千両の報酬を得たのが女形の芳澤あやめで、次いで二代目市川団十郎でした。この時代に千両を得ることがどのような意味を持っていたのか、また江戸歌舞伎のなかでどのように評価されるものかを考えてみましょう。寛政の時代、狂言作者の二代目中村重助が書いた「芝居乗合話」によれば、中村座、市村座、森田座等の江戸三座では、年間のあがりが8000両程度と言います。8億円から10億円程度の売上額であったわけです。天保年間、中村座では桟敷が25匁、平土間15匁でした。桟敷はおよそ5万円、平土間が3万円程度の木戸銭です。もっともこれは一人分というわけではなく、数人分とみなければなりません。ただ歌舞伎を楽しもうとなれば、この木戸銭だけというわけにはいきません。かべすの客と見られるのは、まことに恥ずかしい。そうなれば芝居茶屋などの料理屋への支払等々が重なりますから、庶民の年収を考えてみれば、かなりの高額のお楽しみということとなりますね。到底、貧乏な町人が気楽に楽しめるというわけにはいきません。

むかつき番付
 年間8000両、すなわち8億円から10億円のあがりのうち、役者の給金におよそ6000両,道具類の制作費、衣装費用等に1000両を費やしたといいます。座の利益は残りの1000両から1500両ということになります。座の役者はおよそ60名程度でしたから平均の給金は一人年間100両程度という計算になるのですが、そうはいきません。あくまでも人気のある役者が中心です。それが千両役者であって、まず6000両のうち人気役者にかなりの給金、例えば1000両が支払われ、その残りが普通の役者の給金となるけです。一人年間25両から50両というところで、今の貨幣価値でみて年間所得300万円から600万円程度というわけです。手代の年間給金3両から4両、下級武士の三両一人扶持という基準からすれば、並の役者の25両から50両の給金はなかなかのものであって、さらに千両役者ともなれば、年間所得1億円ですから、それは江戸の町民からすると想像を絶する所得でした。江戸時代には何でもかんでも番付にしたのですが、役者の給金の番付も作成され、印刷物として人気となりました。この番付を「むかつき番付」と言ったそうで、いかにも庶民の気持ちが表れていますね。ただ実際にはその給金のすべてが役者のものとなったわけではないようで、こうした高額役者の衣装は自前で用意しましたし、楽屋で働く多くの裏方、例えば衣装方や床山、道具方等の給金は芝居小屋からは支払われていなかったので、代わりに高額役者が面倒をみていました。江戸庶民の楽しみの極致の一つが歌舞伎でしたが、そこからも江戸経済の様相が見て取れます。こうしたことを赤坂治績は「江戸の経済事件簿 地獄の沙汰も金次第」(集英社)において、まことに詳しくしかも興味深く描いています。