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知財論趣

知財論趣
印刷出版都市の変遷
弁理士 石井 正
  1. ストラスブルグ、ケルン、ヴェネチア
     グーテンベルグが活版印刷技術を確立したのは1450年ごろでした。この活版印刷技術の確立は、それまでの修道院の写本室で生産された書物と比べれば比較にならない程、安く大量の書籍を人々に提供することができるようになり、欧州の経済と文化に大きな影響を与えました。グーテンべルグが印刷技術を確立したストラスブルグでは1460年頃にはこの技術は職人達に知られ、さらに1464年頃には活版印刷技術はケルンに広まっていきました。当時の先進都市ヴェネチアは、この印刷技術をマスターした職人を、特許を与えることを条件に招聘しました。その結果、15世紀末から16世紀の間、ヴェネチアは欧州のどこの都市よりも多く書物を印刷し、出版しました。ピーター・バークの「知識の社会史」(新曜社)によれば、当時、ヴェネチアには500を越す印刷所があったようです。この数は随分多い印象を受けるのですが、多分、かなり小規模の印刷所であったのでしょう。
  2. 印刷出版都市・リヨン
     このヴェネチアにおける印刷・出版業の発展と並行して、フランスのリヨンもまた先進印刷技術に注目し、その導入に成功して、本の都市として栄えました。1473年に活版印刷技術職人を迎え入れ、16世紀半ばにはリヨンには、書籍商が29、印刷業者が63、厚紙製造業者が22、活字鋳造業者が7、版画師が6、紙業者が5、インク製造業者が2、製本業者が2というように、印刷・出版業者がそれぞれ分業を確立していたのです(宮下志朗「本の都市リヨン」晶文社)。ともかく驚かされることは、この16世紀において書籍の需要が想像以上に存在していたこと、その需要に対応して書籍出版業・印刷業がかなりの規模で確立していたことです。
  3. アムステルダムへ
     しかしイタリアとフランスを中心とした書籍・印刷業者の欧州センターはいつまでも続きませんでした。17世紀になるとオランダのアムステルダムがその地位を奪います。なにしろ270以上の書籍業者・印刷業者がアムステルダムで営業したほどでした。もちろんオランダが貿易で栄えていたこともあったのですが、オランダの書籍・印刷業者としての競争力の源泉は言語でした。オランダの業者は、オランダ語、ラテン語、フランス語、英語、ドイツ語は当然として、それに加えてロシア語、イディッシュ語、アルメニア語、グルジア語にも通じ、そうした言語でも印刷していたのです。多言語を操作できること、通商の中心都市であったことが、アムステルダムが欧州の印刷出版センターになりえた理由でした。この時代はまた科学知識が書物や雑誌で公表され始める時期でもあり、オランダの主要出版社にして学術論文誌の出版社エルゼビア社はこの時期に創設され、驚くべきことに今も学術論文誌の世界の中核的出版社として活動しているのです。
  4. ロンドンが出版センターとなる
     しかし出版センターとしてのオランダの地位もまた永遠ではありません。18世紀になると英国のロンドンが登場してくるのです。遅れていた英国が産業革命によって欧州大陸諸国に追いつき、さらに追い越していく18世紀から19世紀、出版業についてもロンドンが欧州のセンターとなっていきます。この時代は著作権制度が少しずつ普及していく時でもありました。ロンドンの出版社は著作者に対してかなりの額の著作前払い金を支払うようになります。たとえばウイリアム・ロバートソンは「カール5世伝」の前払い金として3400ポンド(現在の貨幣価値では7000万円程度)を受け取っています。だからあのダニエル・デフォーは「著述業はイギリス商業の非常に際立った一部門になった」と言うのです。考えてみれば、この欧州における出版業のセンターの変遷は、また著作権制度の発展と普及に大きくかかわっていることが理解できます。ヴェネチアにおいては16世紀に、早くも著作権の初期の形態が存在していました。それが英国になると、現代の著作権制度につながる法制度が確立していきます。法制度だけではなく、実際に著作者に対してかなりの額の著作権料が支払われることとなったのです。
(平成28年2月1日記)

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