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知財論趣

知財論趣
歴史記述の定説・異説
弁理士 石井 正
  1. 歴史に学ぶ
     凡者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶと言います。経験は所詮、一人の人間の短い一生のなかから学ぶしかないのに対し、歴史は多くの人間の長い経験の集積から学ぶと言う大きな違いがあるということでしょう。歴史を学ぶ場合、自らは経験しなかったことを、記録あるいは文書から過去の事実を知り、全体と部分を把握することによって時代の流れと構造を理解し、歴史全体を理解していくわけです。歴史の流れ、構造を理解していくこともなかなか困難なことなのですが、そもそも理解の出発点となる記録あるいは文書というものに、それぞれどこまで信をおいてよいものやら、考えてしまう場合がしばしばあるようです。残された歴史的文書が真実を伝えていないことがままあるからです。
  2. 鉄砲伝来
     我が国に鉄砲が伝来したのは天文12年(1543年)とされています。種子島にポルトガル人を乗せた船が漂着し、そのポルトガル人が鉄砲を撃って見せたところ、島の主、種子島時尭はその威力に驚き、二千金を投じてそれを買い入れた、とされているわけです。これは日本技術史のかなり重要な部分を占めるところで、どの技術史に関わる書もこのエピソードを扱っています。既にお亡くなりになりましたが在野で技術史の研究をされてきた弁理士の奥村先生は、筆者の最も尊敬する技術史研究家のひとりです。その奥村先生の「火縄銃から黒船まで−江戸時代技術史−」(岩波新書)でも、ポルトガル人アントニオ・ダモア他が火縄銃を伝えたとし、それが我が国の技術にいかなる影響を与えたかを述べています。このポルトガル人の伝えた火縄銃を種子島時尭は買い求め、それをモデルとして刀鍛冶の八板金兵衛に火縄銃の製作にあたらせたと記述します。さらに後に、紀州根来の杉坊妙算が種子島を尋ね、その火縄銃の譲受を懇請し、種子島時尭はその熱意に負けて火縄銃1挺を譲り、さらに後、今度は堺の商人、橘屋又三郎が琉球貿易の途中に種子島に立ち寄り、この火縄銃の製造法を学び、堺に帰ってその製造を始めたというわけです。 この後、火縄銃は日本全国にまたたくまに広がり、それが織田信長が武田勝頼の騎馬軍団を鉄砲の三段撃ちで破るという長篠の戦い(1575年)にまでつながっていきます。鉄砲伝来から32年後のことでした。
  3. 定説に対する異説
     ところがこの定説がどうも事実とはやや食い違っているという指摘が出てきています。火縄銃をポルトガル人から譲り受けたことが、日本に鉄砲技術の伝わった最初であるとする説はどうも真実ではないようなのです。これまでの定説は禅僧・南浦文之の書いた「鉄炮記」に根拠を置きますが、この鉄炮記は実際の伝来の時期から60年後に書かれていて、種子島時尭の孫久時が祖父の顕彰のために南浦に書かせたものです。どうしても表現にバイアスがかかりやすい。
     当時のヨーロッパの火縄銃は銃床を肩に当てる方式ですが、日本の火縄銃は頬付け方式なのです。これは当時の倭寇の使用する火縄銃の方式でした。16世紀初めから中ごろ、東南アジアには倭寇が活躍していたのですが、どうやらその倭寇の頭目・王直が直接、火縄銃を日本に伝えたという説が有力になってきているのです。それというのも当時の倭寇による密貿易の取り扱い品目のなかには硝石や硫黄があって、これを売るためには火縄銃とセットで売ることがよく、実際そうしていたようです。仮に倭寇の頭目・王直が伝えたものとすると、これまで言われていた天文12年(1543年)という伝来時期も見直さなければならないかもしれません。
  4. 信長の長篠の戦い
     その後またたくまに日本中に普及していった火縄銃は長篠の戦でその威力を最大に発揮したと戦記は伝えます。しかしこの火縄銃が活躍したとされる戦記もまた事実とは異なっているようなのです。そもそも当時、騎馬武者は戦場においては、馬から下りてしまうのが普通でした。それはルイス・フロイスが記録していて、彼は西洋では騎士は馬に乗って戦うのに、日本の武士は馬から下りて戦うと、驚きつつ批判しています。そうであれば武田騎馬軍団が信長軍に騎馬のまま密集突撃するとはとうてい考えられません。他方、これを信長軍は火縄銃の三段撃ちで迎え、撃破したとされるわけですが、これまた考えられないことなのです。当時の火縄銃の性能からすると、発砲のタイミングを合わせるなどということは至難の技で、三段撃ちをしようとすると、最も遅い銃にタイミングを合せることなってしまうのです。
     歴史の記述はこのようなものかもしれません。難しいものですね。
(平成26年3月3日記)

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