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知財論趣

知財論趣
音楽家の生活誌
弁理士 石井 正
  1. アムステルダム国立美術館
     欧州特許庁のサーチ部門はオランダのハーグにある。日本・米国・欧州三極特許庁協力の実務者会合が、開催地を東京、ワシントン、ハーグと交代で、年に数回は行われるために、ハーグにはこれまで10回以上は訪れた。ハーグに行くとなるとアムステルダム経由が普通で、アムステルダムに半日、あるいは1日いるとなると、国立美術館を訪ねるのが通常のパターンである。 好きなフェルメールの作品が2点所蔵されていて、特に「牛乳を注ぐ女」は絵画の歴史において特筆されるべきものではないかと思っているし、またレンブラントの「夜警」も素晴らしい。この美術館が最近、本格的な改装工事をしたようで、その改装工事もようやく完了したというニュースを目にした。そのニュースを目にして、改装前の印象的な記憶がよみがえってきた。
  2. ガード下コンサート
     アムステルダム国立美術館は大きな建物なのであるが、作り方は古く、赤茶けたレンガで作られていて、その横にレンガの屋根付き道がある。レンガのトンネルのようなものであるから、東京でいうと新橋のガード下という雰囲気がある。その横を通るとなにやら音楽らしき音がする。寄ってみると街路コンサートであった。レンガのトンネル道路の隅で、8人程の管楽器奏者がクラシック音楽を演奏していたのだ。はじめはたいした演奏水準でもあるまいと、ただ通り過ぎるつもりでいたところ、その演奏の水準にびっくりしてしまった。木管、金管楽器ですべての音楽を演奏しているわけであるが、そのレベルがただ者ではなかった。1時間程、聴き惚れた。普通はこうした街路の音楽家にはまずお金等、提供しないのであるが、このときだけは喜んで大奮発した。欧州の街を歩いていると、時々、こうしたかなり高い水準の街路音楽に遭遇することがある。
  3. 音楽家の生活
     思えば、ヨーロッパの音楽の歴史をみていくと、こうした街の音楽家の姿はごくありふれたものであった。それは、街の音楽師をしなければならない程に、音楽で食べていくことは難しいということを意味していた。18世紀、音楽家は貴族に雇われたり、宮廷の音楽家として食べていければ、それは本当に運の良い方であった。しかしその給与は恵まれていたというわけにはいかない。楽聖ベートーベンの父親はボンの宮廷のテノール歌手であったが、勤続28年、年齢44歳で年収は315フローリン、これは現在の日本円でおよそ80万円程度のものであった。1790年のエステルハージー家の支給簿を調べると、その宮廷音楽家への給与が明らかになるのだが、そこにあの交響曲の父ともいえるハイドンがでてくる。副楽長としての彼の年収は400フローリン、すなわちおよそ100万円程度のものであった。それでもハイドンは運が良かった。宮廷音楽家になる前、17、8歳の頃はハイドンは街のダンス・ホールや流しのセレナードの楽団で生活の糧を得ていたのである。
  4. 貴族というパトロンに支えられ
     ともかく貴族等のパトロンがいなければ音楽家は食べていけない。宮廷音楽家として給与は低くてもともかく安定しているのであれば、それは喜んで受け入れなければならない。なにしろウイーンだけでも400人を超す音楽家が職を求めていたのであるから。このため音楽の好きな王や貴族、さらには田舎領主のところを回る事が大事である。だから音楽家は旅に出る。あの天才モーツァルトが幼少のときから旅にでたのは、王や貴族のなかから良きパトロンを探そうとしたためでもある。音楽家は田舎では食べていけない。ともかく街に住まなければならない。街にいれば金持ちのパトロンに巡り会うというもので、その子弟の音楽の家庭教師などは喜んで致しましょうということとなる。
  5. 著作権制度によって自立
     そのチャンスもなければ、いよいよ街のなかで音楽を奏でればなにがしかの収入は得られるし、夜はセレナードを演奏して回れば、これまた収入を得られるというものである。最後の手段は、写譜であった。1日に数枚の写譜をすれば、なんとか食べていけた。あのルソーは、写譜で食べた時期があった。1770年からの7年間、1万1185枚の写譜をしたと言う。1年間に1600枚で1日4枚から5枚の写譜をして生活したのである。
     しかし音楽家が真に自立できたのは、なんと言っても著作権制度のおかげであった。作曲家の場合でいえば、作曲した曲集を印刷して、自らそれを販売する。コンサートの時にはとりわけこの曲集の販売には熱が入る。だからモーツアルトも若い女性が演奏し易いピアノソナタの作曲には熱を入れ、その曲集販売はしっかり行ったわけである。もっともそうした曲集の販売によって収入を得ることができるのは作曲家だけである。演奏家はどうしたかと言えば、演奏家はコンサートホールで聴衆からの入場料を頼りにしたわけであるが、どうにもその収入も期待できるほどではなかった。それが大きく変わっていくのは、レコードの普及であった。一度の演奏をレコードに録音すれば、後には演奏家にレコードが売れた量に応じて収入がもたらされたのだ。これ以降、作曲家もまた演奏家も才能ある者は著作権制度に助けられ、自立していった。
     アムステルダムの古いレンガ造りのガード下で、極めて水準の高い街路音楽家の演奏を聴きつつ、そうしたことを思った。
(平成25年7月1日記)

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