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知財論趣

知財論趣
輸入特許という制度があった
弁理士 石井 正
  1. 歴史のなかの輸入特許制度
     特許の保護対象は、新たに生み出した技術的な工夫=発明であるということは誰しも考える。それが常識となっているわけで、特許法の初学者はまずそれを頭に入れておくわけで、実際に、現在の世界各国の特許制度はその点では大きな違いはなく、いわば標準化されていると言ってもよい。
     しかし特許制度の歴史をみていくと、新たな技術的工夫のほかに、外国では既に知られている技術でも、自国においてはまだ誰もその技術を実施していないような場合には、そうした新技術を新たに自国で実施しようとする者に特許を与えてきた。昔も今も新技術の国境を越えた移転というものは容易なことではなく、国境を越えて新技術を移転しようとする者にはかなりの支援が必要である。何もしないで技術移転が行われるわけではない。そうした他国に生まれた新技術を自国に導入し、実施する者には特典を与えることが求められ、その特典の一つが特許であった。それを輸入特許という。今ではほとんどの国でこの輸入特許制度は廃止されたのであるが、一世紀前までには、かなりの数の国で制度化されてあった。
  2. ヴェネツィアでは
     近代特許制度は、ヴェネツィアから始まったが、特許制度を作った目的は、ルネッサンス・イタリアの各都市国家間の技術格差の存在を前提として、フィレンツェなどの都市で活躍する高度の技術知識を持つ職人をヴェネツィアに移住させるための政策であった。

    1474年に制定されたヴェネツィア特許法では、冒頭で次のように言う。

    「偉大な才能を有し、巧妙なる発明を生み出した者について、我らが市の威厳と美徳の視点から、これらの者が様々な領域において日々、さらに多く当地に来ることが望まれる」

     フィレンツェなどの職人がヴェネツィアに移住する場合に、その技術については10年間の排他的独占実施権を付与すると言うのがヴェネツィア特許法であった。まさに輸入特許制度であった。もちろんまったく新たな新発明も特許の対象となるが、フィレンツェなどではすでに知られていても、ヴェネツィアではまだ実施されていない新技術を実施しようという職人がヴェネツィアに移住する場合もその技術を特許しようというわけである。
  3. 英国もフランスもプロシアも
     この輸入特許制度は、ヴェネツィアから始まり欧州各国に広がっていった。英国、フランス、プロシアがそれであった。16、17世紀の英国はオランダ、イタリア、フランスなどの大陸諸国に比べて技術的に遅れていたため、大陸の職人を島国英国に移住させることが重要な政策となっていた。そのための解決策の一つが特許であった。専売特許条例における特許対象となる発明の規定は単純で、「この王国内の新しい製造方法による加工又は製造に関して」と規定した。王国内において新しい、という点がポイントである。大陸諸国では既に知られていても、王国内ではいまだ新しいような技術は特許すると言う仕組みであった。
     英国が産業革命で先行し、18世紀、19世紀になると英国の技術が高度化し、逆にフランスやプロシアの技術的遅れが目立ってきた。そうなると逆にフランスやプロシアなどの諸国は進んだ英国の新技術を導入しようとした。英国で既に知られていた発明であっても、それをプロシアで初めて実施するような場合には特許権を与えて、それをインセンティブにしようとしたわけである。輸入特許制度であった。
  4. ジェファーソンの米国は
     英国からの独立を果たした米国は、欧州各国に比べて文化も技術も遅れていた。このために、1790年に特許制度を作り、発明の奨励に努めていったわけであるが、輸入特許制度はどうしたのだろうか。1790年特許法の原案では、輸入特許制度が盛り込まれていた。特許されるべき発明は米国において新規であること、という規定であったから、これは輸入特許制度を意識したものであった。
     その背景には大統領ワシントンとワシントンの信頼する政策プランナーであった財務長官ハミルトンの考えがあった。ワシントンもハミルトンも独立間もない米国は、大陸から新技術を積極的に導入しなければならないと考えていた。ところが英国は新技術の盛り込まれた繊維機械などは輸出禁止していたし、職人が米国に移住することも禁止していた。それらが米国に輸出されたり、移住したりして、米国で繊維産業が成立してしまうことを恐れていた。重要な輸出先を失うことを恐れてのことであった。そのためにはワシントンそしてハミルトンは、英国をはじめとした大陸諸国においては既に知られている発明であっても、まだ米国では実施されていない発明に米国では特許を与えることによって、米国にそうした新技術が導入されることを狙ったわけであった。
     ところがフランスから帰国し、国務長官に就任するジェファーソンが輸入特許に反対したのである。理念主義者であるジェファーソンはフランスに公使として駐在する間、欧州各国の事情を見聞きしていた。輸入特許が悪用される事例も耳にしていた。米国で特許制度を作る場合には、外国で既に知られた発明は特許するべきではないと言うのが、ジェファーソンの強い主張であった。その意見は採用され、1790年特許法には、それまでの「発明は米国において新規であること」とした規定は外された。
  5. 明治日本の葛藤
     明治日本はどうか。明治15年、文部省から農商務省に移った高橋是清は特許法の策定を命じられた。諸外国の制度をひととおり調べた後、明治17年に起案したのが「発明専売特許条例按」であった。この案のなかには輸入特許制度が盛り込まれていた。当時の欧州各国制度に輸入特許制度が規定されていたため、それを参考とした。ただし外務省から外国人の生み出した発明をその了解も得ずに特許を与えるのでは外交上問題となると指摘され、輸入特許は製造権の専有とした。
     この条例案が農商務省から太政官に提出され、制度取調局で審査が行なわれた。中心には明治憲法制定グループの一人で、伊藤博文の懐刀とも評価された井上毅がいた。ところがその井上毅が特許制度反対論者であった。明治日本には特許制度はまだ早い、と言うのがその主張であったが、その反対を説得して、ともかく制度取調局の審査はクリアしていった。取調局は輸入特許制度自体には反対しなかった。それまでの製造権専有としていた原案に対して、8年間の専売特許権とするという修正案であった。
     ところが明治18年3月に元老院で審議が始まると、輸入特許制度に反対が集中した。外国において既に知られている発明を、なぜ日本においていまだ実施していないからとの理由でわざわざ特許権を与えるのか。これが元老院の意見であった。それに当初から外務省が指摘していた元の発明者の了解も得ずに日本で日本人に特許を与えることが批判されるのではないかと言う問題も指摘された。それでは発明を生み出した外国人に日本においても特許を与えるかといえば、さらに深刻な問題が発生するのではないかと言う意見も多く出てきた。
    最終案は、結局、輸入特許制度は設けないこと、また外国人には特許を与えるとも与えないとも特許法には明文規定を入れないことで決着した。それが明治18年にスタートした専売特許条例であった。
(平成24年8月1日記)

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