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知財論趣

知財論趣
歴史のなかの先発明主義
弁理士 石井 正
  1. 米国が先発明主義から先願主義へ
     2011年に米国において特許法の改正があり、これまで最大の懸案とされてきた先発明主義を先願主義へと改正することができたことは、既に多くの関係者から説明されているところである。世界のほとんどの国が、同じ内容の発明について出願されてきた場合には、それらの出願のうち先に出願されたものを優先するという基本ルールを採用している。先願主義である。これに対して米国人は、発明が先に行なわれたものを優先するという基本ルールを採用していたわけである。今はすでに米国のこの特異な制度も改正されたのだが、あらためてその制度の歴史的経緯について考えてみることにしよう。
  2. 英国専売条例は先発明主義
     近代特許制度ができた初めの頃には、先発明主義であるにしても先願主義であるにしても、そうしたことはほとんど考慮されることはなかった。そもそも同じ内容の発明が続々と出願されるということはまったく考えていなかったし、実際にそうしたことはなかったからだ。それでも万が一に同じ内容の発明が別の出願人によって複数出願されてきたときにはどうするのか。それに応えたのが、1624年にスタートした英国の専売条例であった。この専売条例はいわゆる独占禁止法とも言うべき内容の法律なのであるが、その第5条と第6条で発明に対して与えられた特許だけは例外として独占的使用を認めるというものであった。その第6条には、「また上記規定は、この王国内の新しい製造方法による加工または製造に関して、その最初かつ真正の発明者に、今後14年間の期間をもって与えられる開封特許状および特権付与状には及ばない」と規定がある。ここで言う上記規定とは、第1条にある「個人および団体に付与されまたは付与される予定のすべての独占ならびにすべての授権、権利付与、許可、勅許は、この王国の法に反し、無効である」というものであった。最初かつ真正の発明者に与えられる特許状、という規定から読めるように、英国ではこの時代には先発明主義であったと理解することができる。しかし同じ内容の発明が同じような時期に複数出願されるような時代ではなかったから、実際に英国の裁判所でこの最初の発明というルールが舞台に登ることはなかった。その後に英国はこの規定を修正して、先願主義にしていった。
  3. 米国の各州に出願された発明のプライオリティ
     ところが1790年に特許法を作った米国においては、この先発明主義あるいは先願主義のいずれかを採用するにあたってやっかいな問題を抱えていた。米国では連邦政府が特許制度を作る前から、植民地各州で既にかなりの数の特許出願がされていた。それら各州に出願されたそれぞれの発明の出願の日は必ずしも明確ではなかった。なにしろ各州で手続もバラバラであったし、どのように出願したかもはっきりしていなかったからだ。そうなると先願主義でいく場合、各出願の日を再確定しなければならないが、それが容易ではない。先発明主義ならば、すでに各州に出願され、その出願日すら判然としない場合であっても、それぞれの発明日を確定して一応はそれぞれのプライオリティを決めていくことはできる。先願主義というものは手続ルールが決まっていて初めてなり立つルールなのである。なかでも蒸気船の発明に関して6年間かけて争ってきたラムゼイとフィッチの特許のプライオリティの問題がややこしかった。当時の米国を代表する政治家や文化人等を巻き込んでの特許の大紛争であった。この争いをみる限り、先に出願した者が特許取得のプライオリティを得る、と単純に決めるわけにはいかないことが明らかであった。
  4. 米国は英国専売条例を参考にする
     米国はそうした場合、母国であり同じコモンローの国である英国の法制度を自ずから参考にする。特許でもそうであった。英国の専売条例では「真正にして最初の発明者に与えられる特許」というフレーズがあり、これを素直に読めば最初の発明者なのだから、仮に同じ内容の発明が別々の発明者により発明された場合には、早い出願の者に特許を与えるのではなく、早い発明の者に特許を与えるべきであると考えた。 ひとたび先発明主義で制度設計すると、理屈の上では先発明主義の方が発明者保護と言う面で手厚いことは確かである。なにしろ発明から出願には時間と費用が必要であり、先願主義では個人発明家は大企業のしっかりした出願体制のある相手にはハンディキャップを負うこととなるからだ。米国は1790年特許法以来、先発明主義を採用していったわけである。
  5. 先発明主義から先願主義へと切り換えていく
     明治18年の専売特許条例では、同じ内容の発明が同じような時期に出願されてくる場合のルールは決めていなかった。その意味では先願主義、先発明主義のいずれとも規定していなかったわけである。ところがこの年の末からおよそ1年間かけて高橋是清は米国及び欧州各国に派遣され、それぞれの特許制度を視察し、制度および運用を研究した。 この結果、是清は帰国後、専売特許条例を改正して特許条例とした。特に米国特許法とその運用を採用した。特許審査の内容が最も充実していたのが米国特許庁であったこと、その保有する特許公報文献ひとそろいを日本に無償で提供するという決断までをした米国特許庁に対して是清は感ずるところも多かったようだ。その米国が先発明主義を採用しているところから、特許条例では先発明主義に基づく規定を盛り込むこととなった。
     ところが19世紀末から20世紀初めの頃、欧州では特許制度の検討も進行していき、ドイツを中心に先願主義のメリットが強調され、先願主義を前提に特許制度全体の制度設計が進んでいった。そこで明治42年法では、先発明主義と先願主義の混合方式へと改正していった。この42年法では、第9条で、「最先ニ発明ヲ為シタル者ニ限リ特許ス」としたうえで、「発明ノ前後不明ナルトキ」は「最先ニ出願ヲ為シタル者ニ限リ特許ス」と定めた。原則は先発明主義なのだが、発明の前後が不明なときだけは先願主義というわけである。
    大正10年法においては、当時、欧州の学界を中心に検討されていた望ましい特許制度の内容を取り込み、個人の財産権の保護、職務発明の保護等が盛り込まれていった。その一つが先発明主義から先願主義に切り換えることであった。
(平成24年6月1日記)

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