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知財論趣

知財論趣
科学と技術:二つの文化
弁理士 石井 正
  1. 科学技術と科学・技術
     先日の新聞報道によれば、国の大きな委員会の名称についてその変更が議論されているとのことであった。それまでの委員会の名称には科学技術という表現があったものを、これを科学・技術へと変更することが議論を呼んでいるとのことであった。
     科学技術という場合、科学と技術は一体的で、経済や産業に総合的に影響することが含意されている。それと比べて、科学・技術という場合、科学と技術は本来異なるものであるが、それをあえて両者を組み合わせて活用し、産業や経済に役立てていく、あるいは発展させていくという含意がある。日常的な常識からすれば、科学技術であろうと、科学・技術であろうと大きな違いがないように思われるのであるが、考えていくと確かにそこには大きな違いがあるようだ。
     西欧における科学と技術の歴史を見ていくと、科学と技術は本質的に異なるものであった。それがルネッサンスの頃から少しずつ両者の距離が近くなり、お互いが影響し合い、産業革命の19世紀には科学技術と表現してもよい状態になった。
     それが特許制度における発明の明細書の誕生とも関わっている。それは後に考えるとして、まずは科学と技術の違いについて考えることとしよう。
  2. 科学とキリスト教文化
     科学は、自然に関しての知識の体系であると言ってよい。もっとも現代では自然科学だけではなしに、社会科学とか人間科学とか意味が拡大しているところがあるが、歴史的には科学は自然科学の意味であった。
     科学と言うと英語ではサイエンスであるが、これにはラテン語で「知識」という意味がある。我らが住む世界を取り巻く「自然」はどのようになっているか、それを知りたいと願い、知り得たもの=知識の集積が科学であった。それはまたキリスト教文化においては、神の創られたこの世の仕組みを理解するという尊い作業をも意味していた。
     西欧中世の大学における学問とは、神学、哲学、法学、医学、科学であった。神学も哲学も神の定めた考えを理解することであり、法学は神の創られたこの世のルールを学ぶものであった。医学は神の創られた人間の構造と理解し、神に代わって治療することであり、科学は神の創られたこの世界の仕組みを理解することであった。
     科学者が、その知り得た知識によって経済的な利益を手にする等ということはまったく考えられなかった。だから西欧では科学者の多くは貴族やすくなくとも金には困らない人であった。
  3. 科学者は筆の人
     科学者はこの世界=自然の仕組みを明らかにしていく人であるから、その知り得たことは、ただちに同じ科学に関心を持つ友人達に連絡をしなければならない。それは本来的に科学に関わる者の義務にもなっていたし、それをいち早く見出し、新たな知識の体系を作り上げた者は、それが科学者としての評価であり、尊敬を受けることであった。
     そうであれば科学者は常にその知り得た事実を文章にして同じ科学者に報知していく。だから科学者は筆の人とも称される。はじめのうちは手紙で連絡をし、その手紙が友人達の間で回覧されるようになり、ときにはサロンで新たな知識を披露するようなこともでてきた。それが学会となり、学会誌、論文誌となっていった。
  4. 技術は職人の手のなかに
     技術は科学とはまったく異なったものであった。技術は実際に役に立つ工夫の集積であった。ギルドや職人組合のなかで技術は集められ、改善され、それは職人のわざとして評価されていった。
     したがって技術はギルド内部においては共有されたが、原則としてギルド外には出さない、秘密にしておくべきものであった。だから技術はそれを知識として明らかにするということはなかったし、当然であるが、技術内容を文書にする等ということはなかった。なにしろ技術は職人のものであり、職人は手の人であって、筆の人ではない。職人は文字を書くことを普通はしないのだ。
  5. ルネッサンスの頃から
     アリストテレス的な自然観からすれば、技術とは自然に逆らうもの、自然を欺くものと考えられていた。技術とは、Machinatio、すなわち欺きの手段であった。このMachinatio とはギリシャ語のmechanomaiからきた言葉で、これは偽装のための工夫という意味があった。
     したがって科学において技術を利用する等ということはアリストテレス的には考えられないことであった。アリストテレスは人間の認識においては、いかなる技術的手段も、あるいは器具も用いるべきではないと考えた。
     ところがルネッサンスの頃から、新たな科学の発見には特別な技術的手段や道具が求められ、実際にそれが役立っていった。望遠鏡がそれであったし、顕微鏡もそうであった。寒暖計はまったく新たな道具であったし、時計によって時間の概念が大きく変わっていった。
     科学は技術に近づいていった。ところが同じ時期、技術もまた科学へ限りなく近づいていくのだ。新たな技術的工夫をする場合に、科学の知識が大いに役に立つことに気付いたのである。その典型例があの蒸気機関の発明者ジェームス・ワットであった。彼は熱についての科学的知識を身につけて、あの発明を生み出した。それはそれまでの技術が、文字を読まない職人に属していたものから、文字を読む高級職人に属するものへの大きな転換をも意味していた。
  6. エコール・ポリテクニーク
     フランス啓蒙主義の時代、ディドロやダランベールは「百科全書」を編纂したが、その内容の多くを技術が占めた。自然に関する知識の集積が科学であったが、技術もまた同じような位置を占めるようになってきたのだ
     そうであれば科学が大学で教育されるべき対象であったのと同じように、技術もまた職人ギルドの枠から離れて、大学等の高等教育機関において教育されるべき対象となっていった。フランス革命前の土木学校、鉱山学校、その後のエコール・ポリテクニークがそれであった。ドイツでは工科高等専門学校(Technische Hochschule)がそれであった。
     技術は職人の手のなかから、知のセンターである大学へと移され、科学と結びつくようになっていった。それはまた技術知識について特権を与える特許にもまた関わることとなる。それは次回、考えてみることしよう。
(平成24年2月1日記)

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